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秋の夜が更け、寂寥の念が胸中に広がると、ピアノの音が恋しくなる。往年の名手の録音を聴いてもよいし、新進気鋭の若手の演奏会に出かけるのも愉しい。しかし、来し方を振り返り旧い友を想う、そんな時には、どういうわけか、齋藤正樹を無性に聴きたくなる。

齋藤は社会学者としての顔も持つ異色のピアニストである。その演奏はあくまで知的でありながら、鋭い感性と確かな技術に裏打ちされた夢幻の美を現出させる。初めて演奏を聴くと、ほとんど力を込めていないのに、ホールの隅々に、そして心の奥底にまで美しい響きが満ち満ちるのに驚くことだろう。「力んだ演奏は余分な雑音を生み、かえって音を止めてしまう」と齋藤は言う。あたかも矢を放たずして鳥を射落とす、不射の射に通じるかのような名人芸である。そこから自在に繰り広げられる音楽は、光と影が織りなす不思議な立体感に満ちている。何度も聴いたはずの曲も、齋藤の手にかあるとまったく新しい作品に生まれ変わったかのように、新たな発見と愉悦をもたらしてくれるのである。

ふと、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の一節を思い出した。「われわれ東洋人は何でもない所に陰翳を生じせしめて、 美を創造するのである」。齋藤の真価は、この陰翳のつくり方にある。日本的、あるいは東洋的な感性で西洋音楽を演奏すると聴くと奇異に感じられるかもしれないが、日本人がクラシック音楽を演奏する意義はまさしく其処にある。齋藤は一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけてのロシアの音楽を得意にしている。帝政ロシアが拡大を続けて多くの民族を支配下においたこの時代には、アジアや中東の民族音楽が必然的にロシアの楽曲に取り込まれていった。スクリャービンやラフマニノフといった往時の作曲家の作品を手掛けると、齋藤の演奏はひときわ説得力と輝きをますが、あるいは、ロシア音楽に内在するこうしたアジア的なものに感応しているのかもしれない。

人に勝つための演奏ではなく、技巧をひけらかして大向こうを張る見世物でもない。ただ、聴く者を内奥の美に誘い、深い思索と至福に浸らせてくれる音楽、まさに芸術である。

日本ミュージックペンクラブ理事 小野寺 粛

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